秩父市の歴史
<原始・古代>
秩父地方の人類の足跡は、近年の発掘調査により、旧石器時代後期の約1万6000年前のナイフ形石器が蒔田にある下蒔田遺跡より出土したことで、確実に遡れることが確認されている。また、約1万2000年前の縄文時代草創期になると、神庭洞窟(三峰)や橋立岩蔭遺跡(上影森)より石器類と共に発見された隆起線文土器が出土している。
その後、縄文時代中期(約5000~4000年前)以降になると全国的に遺跡の数が増え、市内でも井の尻遺跡(中村町)、下段田遺跡(荒川白久)、塚越向山遺跡(上吉田)、など多くの遺跡が確認されている。しかしながら、縄文時代晩期(約3000~2300年前)から弥生時代(約2300~1800年前)にかけて、遺跡数が極めて少なくなる。これは全国的な動向で、秩父市の例外ではない。大沼遺跡(影森)、井上遺跡(下吉田)、中野遺跡(荒川白久)などがあげられる。
「ちちぶ」の名は、早くから知られており、延喜年間(901~923年)に成立したといわれる『旧事本紀』に納められている『国造本紀』によると「知知夫国造、瑞籬朝の御世に八意思兼命の十世の孫、知知夫彦命国造に定め賜ふ。」とあり、秩父地方が東国にあっていち早く国造が任命されたことになる。
律令制下の秩父郡は、『和名類聚抄』によると、管内6郷の下郡とされている。郡域は概ね現秩父郡の全域と神川町、寄居町、ときがわ町、飯能市の一部を含むものと考えられている。近年、郡衙や正倉などの関連遺跡が発掘調査で明らかになりつつあるが、秩父郡の郡衙は不明であるが、中村郷があったとされる秩父市中村町が有力な候補地であるという。
中央政府との関わりは、『続日本紀』和銅元年(708年)戊申正月条によれば、秩父郡より自然銅が献上され、年号が慶雲から和銅に改元され、武蔵野国の庸調が免じられた。その自然銅が産出された場所は不明であるが、秩父市黒谷地区が有力候補地といわれている。また、「万葉集」巻20の防人の歌には助丁秩父郡大伴部少歳の歌が収録されている。さらに、平城京跡からは、天平17年(745年)「秩父郡大贄豉一斗」の木簡が出土している。
平安時代に入り、10世紀に延喜式が制定されると、式内社として秩父神社、椋神社が選ばれている。また、秩父郡に勅旨牧が2か所指定された記述もある。
<中世>
中世は、古代末より台頭してきた武士の活躍した時代である。秩父地域に勢力を伸ばしていたのは武蔵七党の内、丹党中村氏で、居館は秩父市中村町にあったと考えられている。
関連遺跡は、「丹党中村氏の墓」(市指定史跡・中村町)、「延慶の青石塔婆」(県指定史跡・寺尾)などがある。関東一円に勢力を伸ばしていた平氏も、11世紀初頭活躍していた将恒が「中村太郎」、「秩父六郎将恒」と称して秩父市中村町に居館を構えたといわれ、その孫武綱の時に秩父市下吉田に移り「秩父氏館跡」(県指定旧跡)を構えたといわれている。
また、秩父市には平将門伝説が残っており、城峯山の桔梗伝説、荒川上田野の若御子神社将門かくれ穴、大滝の大血川伝説等、数多く語り継がれている。
これら武士は信仰にも影響を及ぼした。庇護を受けた社寺の創立が盛んであり、秩父観音霊場の成立もこの頃であったといわれている。関係資料として「長享2年(1488年)秩父札所番付」の古文書が残っている。なお、この番付は江戸時代以降の番付とは大きく違っていた。
応仁の乱を境に室町幕府の支配体制は揺らぎ、関東では長尾景春が関東管領山内上杉顕定に反旗を翻し、文明10年(1478年)に太田道灌によって武蔵鉢形城(寄居町)で敗れた。敗走した長尾景春は伊玄入道と称し、秩父に逃げ込んで最後を遂げた伝説が残っている。
この後、後北条氏が台頭してくると、秩父地方は鉢形北条氏の支配下となり、土豪もその支配下になっていったと考えられる。
秩父地方の隣国は甲斐武田氏であるため、備えの拠点となった城郭が多く残っている。市内の代表的な城館には、諏訪城跡(大野原)、竜ヶ谷城跡(吉田久長)、熊倉城跡(荒川日野)などがある。永禄12、13年(1569、1570年)には、甲斐武田の秩父侵入が行われ、市内の社寺に対して火をかけられて焼失したという信玄焼きの伝承が数多く残っている。代表的な例に秩父神社(番場町)、吉田椋神社(下吉田)、廣見寺(下宮地町)などがある。
<近世>
豊臣秀吉の小田原征伐を受け、天正18年(1590年)6月鉢形城の落城、同年7月に本拠地小田原城落城の後、後北条氏の支配を受けていた秩父地方は、関東に入国した徳川家康の支配下となる。
鉢形北条氏の旧臣達の多くが秩父地方に落居したと考えられており、江戸期の名主層の多くが、これら旧臣の後裔であるという。
秩父地方は、当初、直轄地として関東郡代の伊奈氏の支配を受けていた。寛文3年(1663年)に忍藩主の阿部忠秋が秩父の大宮郷(秩父市)をはじめ周辺の諸村の領地を幕府より下賜されている。忍藩秩父領は大部分が現秩父市域にあり、時代により変化があるが、荒川右岸地域に集中していた。
忍藩の秩父支配は、現埼玉県地方庁舎(東町)の敷地に代官所が置かれ、民政を司った。通常、民の支配は五人組制度のもと、名主、組頭、百姓代の村方三役を通して行っていたが、忍藩はこれら村方を総轄する割役という職を設け、代官と村方の間に介在させた。これの代表的な資料として「忍藩割役名主御公用日記」(県指定有形文化財)がある。
江戸からの大宮郷(秩父市)に至る交通は、正丸峠越えの「吾野通り」、粥仁田峠越えの「河越通り」、熊谷から荒川沿いに入る「熊ヶ谷通り」の街道がある。「熊ヶ谷通り」は大宮郷から市内の荒川・大滝地区から雁坂峠を経て甲斐の甲州街道に続き、一般的に秩父往還といわれていた。
市内の関所は、甲斐への出入りを取り締まるため、栃本関(大滝 国指定史跡)と麻生加番所(大滝 市指定史跡)を設置し、幕府の管理下とした。
江戸で観音信仰が盛んになると、秩父札所は信仰を集め、多くの巡礼者が秩父に訪れるようになる。これらの札所を巡るため巡礼道が整備され、現在でも道しるべや馬頭尊・庚申塔などの石造物・石仏類が数多く遺されており、当時の往来をしのばせている。
秩父の生業は、田畑の他に現金収入が見込める養蚕が盛んであった。当時、上州桐生と並び秩父絹として隆盛を極め、各地に取引のための市が設けられた。特に大宮郷の妙見宮(秩父神社)に設けられた市は最大で、霜月(11月)1日から6日まで行われ、絹大市とよばれた。妙見宮(秩父神社)の冬祭りとしての神事と、現在「秩父夜祭」として知られている付祭りも行われたため、大いに賑わいを見せていた。忍藩も財政につながることからこれらを手厚く保護をした。
幕末になると飢饉と圧政による「世直し一揆」とよばれる打毀しが起き、幕藩体制の土台をゆさぶり、天明3年(1783年)12月の大宮郷打毀し騒動、慶応2年(1866年)6月秩父郡名栗村の一揆に端を発した武州世直し一揆など、混迷を呈していた。
<近・現代>
慶応3年(1867年)大政奉還により明治政府が生まれ、明治4年7月の廃藩置県により秩父地域は忍県(概ね荒川東岸)と岩鼻県・前橋県(概ね荒川西岸)に編入された。
その後、岩鼻県・前橋県は明治4年(1871年)10月に群馬県に編入、忍県の内の秩父地域は同年11月に入間県に編入され、明治6年(1873年)には群馬県と入間県が合併し熊谷県となった。その後、明治9年(1876年)熊谷県の廃止により、旧入間県は埼玉県に編入し、現在の県域と同じ埼玉県となった。
明治22年(1889年)頃の秩父市は、大宮町・原谷村・尾田蒔村・高篠村・大田村・影森村・浦山村・上吉田村・下吉田村・中川村・白川村・大滝村となった。
明治期の主な事柄は、明治11年(1878年)3月に秩父大火で447軒が焼失、明治17年(1884年)の秩父事件があり、特に秩父事件は全国的に知られることとなった。当時、デフレ政策により生活を支えていた生糸の価格が大暴落、さらに地方税の増加が追い打ちをかけ、多くの人が高利貸しの借金に苦しんでいた。これらの人々の中から田代栄助はじめとした秩父困民党を結成し武力で訴えた。
養蚕は江戸時代以来、盛んであったが、外国への輸出が増加すると輸出向けと内地用の商品の分化がおこり、この内地用の生糸が秩父銘仙として発展していった。
大正期に入ると、大正3年(1914年)に上武鉄道(秩父鉄道)が、熊谷-秩父で運転を開始し、大正6年(1917年)になると影森まで鉄道が整備され、大正12年(1923年)に秩父セメント株式会社が設立されると、セメントの輸送としても需要が多かった。
昭和25年(1950年)に県下7番目で、市制施行により秩父市となった。その頃の市域内の自治体は原谷村・尾田蒔村・久那村・高篠村・大田村・影森村・浦山村・吉田町・上吉田村・荒川村・大滝村であった。その後、昭和の大合併といわれた昭和29年(1954年)から昭和33年(1958年)頃になると、市域は秩父市・吉田町・荒川村・大滝村となった。平成17年(2005年)4月これら市町村が合併し現在の秩父市となった。